ラッセル論理学とクイーン、笠井潔、西尾維新の探偵小説
という本を読んでいる。
まぁ探偵小説が好きだという理由と、
たまには文芸書以外も読んだ方がいいだろうと思ったので手に取ってみたわけである。
ただ残念なことにクイーンはほとんど読んでない。
笠井潔は読みたいけど一冊目が図書館にないのでずっと放置。
西尾維新はほとんど読んだけど。
けど読んでみて、これはムリだと断念しそうになった。何せ内容が難しい。
論理学っていう分野自体詳しくないし、そーいえばラッセルって聞いたことあるよね、ウィトゲンシュタインって社会学か思想かで習ったような習ってないような、みたいなレベル。
まずそこから勉強しないと理解できない。
とは思ったものの、せっかくだから分かるところだけでも読んでみようと2章から入ったわけで。
そしたら案外面白い、これ。
特に“還元公理”っていう考え方が面白かった。
還元公理…っていうと難しい。でも例を聞くと分かる。
aとxという存在があり、xについて列挙された全ての属性と一致するときにx=aとしてよい。という考え方。うん?分かりにくいなぁ…。
近代刑法上では「疑わしきは罰せず」っていう考え方だけれども、
たとえば「Aっていう人が犯罪を犯したとして、Aが犯人であるということは必ず、一片の疑いもなく断定することができるのか」っていうことを考えてみる。
被害者が「Aが犯人だ」という。
目撃者が10人いて、Aが犯人だと皆が証言する。
A自身が己が行ったことだと自白する。
これで罰されないのはおかしいと我々は考える。
だが本当にそう断定していいのだろうか。
なぜならば、全員が嘘をついているという場合や心神喪失だったり錯覚だったり勘違いだったり、とにかくそういった条件が重なり合えばAが犯人ではないという可能性だって生じてくるのだから。
確率論的に瑣末事であっても、この「Aが犯人ではない」という状況が存在する以上、「疑わしきは罰せず」という観念に従えば、Aを罰することは出来ないはずである。
では我々が現実にAを犯人として罰しないかと問われると否。
Aは間違いなく犯罪者と断定されるはずである。
なぜか。
我々はこのAを、還元公理により犯人だと「みなす」からである。
なるほど、と思った。
そう考えればわたしがどれだけ日常的に「みなし」ているのかにびっくりする。
わたしはわたしであると「みなし」、朝起きて窓をあければ今日が昨日の続きであると「みなし」、おはようという母を己の母であると「みなし」…。
うわぁ怖いなぁ。還元公理がなかったらこの世界って簡単に崩れちゃうもんなぁ。
そういえば今日の新聞の朝刊で養老孟司さんの記事だったかなぁ、そこにも「同じ現実を共有しているか」とか、「客観的事実は存在するか」みたいなことが書いてあった。
我々は{「客観的事実」=∑みなし}の世界に生きてるのかな、なんて考えたり。
ちなみに養老孟司さんはそんなものは存在しないとおっしゃってました。
だから「なんでも同じ」なんてありえない、みたいな。
ソウデスカ。
まぁこういうことって頭で考えたら理解は出来るけど、実際問題それを生活に適用できるかって言われるとムリなんだろうと思う。
というか実践しようとした結果出来たのがこんな人間なんだから実践しない方が断然いいのだと思う。
失敗して本当によかった。
だいぶ話がそれたなぁ。
確か探偵小説についての本だったと思うのだが、どうしても読んでいるうちに頭がぐるぐるしだすんだよなぁ。この文章読んでる限り、「探偵小説」の論理学である必要はなかったかも…。今度はふつーの論理学の本を読もう。そうしよう。
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